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現代語訳 心中天の網島 中之巻2

天満紙屋内の場(続き)

 戸口までの見送りも
 またぐ敷居ももどかしく
 治兵衛はこたつに横になり
 かぶる布団の格子縞

おさん「まだ曾根崎が忘れられないの。」

 と、あきれながら近寄って
 布団を取って引きはがすと
 枕につたう涙の滝
 身の浮くほどに泣いている

 引き起こして引き立てて
 こたつのやぐらに押しつけて
 座らせ顔をつくづく眺め

おさん「あんまりです、治兵衛さん。
そんなに名残が惜しいなら、誓紙を書かなければいいのに。
おととし十月の、中の亥の子の日に、
こたつ開きのお祝いといって、
ほらあなた、ここで枕をふたつ並べましたわね。
あれから女房の懐には鬼や蛇が棲むようになったとでもおっしゃるの。
二年ものあいだ独り寝をがまんし、
ようやくお母さまとお義兄さまのおかげで、
仲の良い夫婦らしい寝物語ができるようになると思いましたのに、
楽しむ時間もないうちに。
ほんとにむごい、冷たい。
それほど未練に思うなら泣きなさい。
泣いて涙が蜆川へ流れたら、
小春が汲んで飲んでくれるでしょうよ。
ああ情けない、恨めしい。」 

 と、膝に抱きつき身を投げ出し
 悲しい気持ちを訴える
 治兵衛は目元を押しぬぐい

治兵衛「悲しい涙が目から出て、
無念の涙が耳からでも出るものなら、
だまって心の中を見せてやれるが、
どちらの涙も目からこぼれ色も変わらないから、
心が見えないのは仕方ない。
人の皮を着たけだものなんかに未練もへちまもないのだが、
独り身の太兵衛にだけは恨みが残る。
金は自由がきく、妻子はない、請け出す準備はしたものの、
そのときは小春が太兵衛の心に従わず、
『なにも心配しないで。
たとえあなたと縁が切れて一緒になれなくなっても、
太兵衛に請け出されることはありません。
もし金ずくで親方が渡すなら潔く死んで見せましょう。』
と何度も言い切ったが、それがこの通りだ。
別れて十日もたたないうちに太兵衛に請け出されるような心の腐ったけだものに、
未練はちっとももたないが、
太兵衛のやつが大ぼら吹いて、
『治兵衛は商売に行き詰まり金に困って逃げ出した。』
などと大阪中を触れまわり、
問屋仲間のつき合いにも、
顔をじろじろ見られて生き恥をかくかと思うと、
つらくて胸が張り裂ける。
恥ずかしくて体が燃え上がる。
ああ口惜しい、残念だ。
熱い涙血の涙、ねばい涙をこえて、熱鉄の涙がこぼれる。」 

 と、どっと倒れ込んで泣く

 おさんははっと真顔になり

おさん「なんですって。
ああ、それならかわいそうに小春は死んでしまいます。」

治兵衛「いやいや、いくら賢い女でも、やはり町衆の女房だな。
あの薄情者が死んだりするものか。
灸をすえたり薬を飲んだりしてせいぜい長生きするだろうよ。」

おさん「いいえ、そうじゃないの。
自分では一生言わないつもりでいたのですが、
隠し通してみすみす殺してしまうその罪も恐ろしいので、
大事なことを打ち明けます。
小春さんには芥子粒ほどの偽りもないのに、
このさんが仕組んでふたりの手を切らせたのです。
あなたがうかうか死んでしまいそうなようすも見えたので、
あまりに悲しくて、
『女は互いに助け合うものと言います。
思い切ることなどできないとは承知していますが、
そこを思い切って、夫の命を助けてください。お願いします。』
と、手紙でつらい気持ちをお伝えしたところ、
それを察してくださり、
『身にも命にも代えられない大事なお方ですが、
お断りできない義理を感じます。身を引きます。』
とのご返事をいただきました。
わたしはここにお守りとして肌身離さず持っています。
それほどかしこい方があなたとの約束を破り、
おめおめ太兵衛と一緒になったりするものですか。
女はだれでも一途なもの、
気持ちを変えたりしないものです。
きっと死ぬつもりです。死んでしまうつもりです。
ああ、とんでもないことになった。
あなた、どうか助けて。助けてあげて。」 

 と、騒ぐと夫もうろたえて

治兵衛「取り返した起請の中に知らない女の手紙が一通入っていた。
兄上の手に渡ったので見なかったがあれはお前の手紙だったのか。
そういうことならきっと小春は死んでしまうぞ。」

おさん「ああ悲しい。
あの人を殺しては女同士の義理が立たない。
とにかくあなた、急いで行ってどうか死なないようにしてください。」 

 と、夫にすがり泣き沈む

治兵衛「それにしてもどうしよう。
半金だけでも手付けを打ちつなぎとめてみるだけだ。
小春の命は新銀でも七百五十匁入れなければこの世にとどめることはできない。
今の治兵衛に四宝銀にして三貫目の工面は、
身を砕いてもどこから出せようか。」

おさん「まあおおげさな。それで済むならたやすいことです。」 

 と、立って箪笥の小引き出し
 あけてきれいなひも付きの
 袋を開いて惜しげなく
 投げ出す包みを治兵衛が取り上げ

治兵衛「なに、金か。しかも新銀四百目。これはどうした。」 

 と、知らない金に驚くばかり

おさん「そのお金の出所も、あとで話せばわかることです。
この十七日の、岩国への紙の支払いに準備しましたが、
そちらは兄上に相談すれば商売の穴をあけることはありません。
小春の方は急ぎます。
その銀は、四宝銀では四四の一貫六百目。
それにもう一貫四百目はこちらから。」 

 と、大引き出しの錠をあけ
 箪笥を開いてひらりと飛んで
 取り出す鳶の八丈絹
 京縮緬の今日散って
 明日はもうない夫の命
 それも知らない白茶裏
 娘のお末の表と裏が
 紅絹(もみ)の小袖をなくしては
 かわいそうにと身を焦がす
 質入れしては勘太郎の
 通す手がない袖なしの
 綿入れの羽織も数に入れ
 郡内縞のしまつして
 着たことのない浅黄裏
 黒羽二重の一張羅
 家紋は丸に蔦の葉の
 軒這う家にともにいて
 退(の)きも別れもせぬ仲は
 内は裸で暮らしても
 外は錦の見えを張り
 男を飾る小袖まで
 さらえて数は十五種類

おさん「少なく見ても新銀で三百五十目、
まさか貸さないということはないでしょう。」 

 と、まだいくらでもあるふりをして
 夫の恥と自分の義理を
 ひとつに包む風呂敷の
 中に思いを詰め込んだ

おさん「わたしや子供に着るものがなくても、男は世間が大事です。
請け出して小春も助け、太兵衛とやらに男の面目を立ててください。」 

 と、言いながらもうつむいて
 おさんはしくしく泣いていたが

治兵衛「手付けを渡して命をとりとめ、請け出したそのあとで、
囲っておくのか。
家に入れるとしたらおまえはどうなるのだ。」 

 と、言われてはっと行きづまる

おさん「ああ、そうだ。さあどうしよう。
子供の乳母か飯炊きか、隠居でもしましょう。」 

 と、わっと叫んで沈みこむ

治兵衛「あまりに報いが恐ろしい。
この治兵衛には親の罰、天の罰、神仏の罰は当たらなくても、
女房の罰ひとつでも明るい未来はないだろう。
許してください。」 

 と、手を合わせて嘆き悲しむと

おさん「もったいない。
そんなに拝むことではありません。
手足の爪をはがしてもそれもみな夫へのつとめです。
紙問屋への支払いに、
いつからか着物を質に入れて急場をしのぐようになり、
わたしの箪笥はもう空ですが、それを惜しいとも思いません。
なにを言っても手遅れになっては取り返しがつかない。
さあ、早く着物を着がえて、にっこり笑ってお行きなさい。」 

 と、下に郡内上着には
 黒羽二重の小袖を着せ
 縞の羽織に紗綾(さや)の帯
 金で飾った中脇差
 これが今夜小春の血に
 染まることになろうとは
 仏は知っておいでだろうか

治兵衛「三五郎来なさい。」 

 と、風呂敷包みを肩に背負わせ
 三五郎をお供に連れ
 金も肌身にしっかりつけて
 出かけようとする門口に

五左衛門「治兵衛はうちにおられるか。」 

 と、毛皮の頭巾を脱ぎながら
 入って来るのはこれは大変
 舅の五左衛門

治兵衛「これはまあ、ちょうどようこそお帰りください。
いや、おいでになりました。」 

 と、夫婦は驚きうろたえる  
 三五郎が背負う風呂敷もぎ取って
 どっかと座り鋭い声で

五左衛門「女は座っていろ。
婿殿、これは珍しい。
上着下着を着飾って、脇差に羽織とはみごとな金持ち衆の晴れ姿。
とても紙屋風情には見えないが、新地へおでましか。
ご精が出ますな。
もううちの女房はいらないだろう。
おさんに暇をやれよ。そう思って連れに来た。」 

 と、皮肉を込めて苦い顔
 治兵衛はことばもない

おさん「お父さま、今日はお寒いのに、ようこそおいでになりました。
まずお茶をひとつ。」 

 と、茶碗を差し出しそばに寄り

おさん「うちの人の新地通いも、
さきほどお母さまと孫右衛門さまがおいでくださり、
心のこもったご意見をいただき、
反省して熱い涙を流し、
誓紙を書いて決意をしたためたところです。
お母さまに渡しましたが、まだご覧になりませんか。」

五左衛門「ああ、誓紙とはこのことか。」 

 と、懐から取り出して

五左衛門「廓狂いするような奴は起請や誓紙をあちらこちらで勘定書きほど書きちらすものだ。
おかしいなと思いながら来てみれば案の定だ。
このざまでまだ梵天帝釈か。
こんなものを書く暇があったら離縁状を書け。」 

 と、ずたずたに引き裂き投げ捨てた
 夫婦はあっと顔を見合わせ
 あきれてことばも出なかった

 治兵衛は手をつき頭を下げ

治兵衛「お腹立ちはごもっともとお詫び申しますが、それは以前の私のこと。
今日ただいまからは、なにごとも慈悲とお思いになっておさんに添わせてやってください。
たとえこの治兵衛は乞食非人の身となって人の食べ残しで命をつなぐようになっても、
おさんはきっと上座に据えつらい思いも苦しい思いもさせません。
添い遂げなければならない大きな恩があるのです。
そのわけは月日が経ち、
わたくしが働きぶりをあらため、
家の財産を持ち直してお目にかけたならわかっていただけます。
それまでは目をつむっておさんに添わせてやってください。」 

 と、はらはら悲嘆の涙を流し
 まるで畳に食いつくように
 頭を下げて謝ると

五左衛門「非人の女房にはなおさらできない。離縁状を書け。
おさんが持参した道具と衣類は数をあらためて封印しよう。」 

 と、箪笥に近づくと女房はあわて

おさん「着物の数はそろっています。調べる必要はありません。」

 と、いそいで邪魔をしようとするが
 押しのけぐっと引き出して

五左衛門「これはどうした。」 

 また引き出してもからっぽで
 あるだけすべて引き出すが
 端切れ一尺(三十センチ)ありはしない
 さらにつづらも長持ちも
 衣裳びつも開けてみて

五左衛門「これほどからになったか。」 

 と、舅は怒りの目玉もすわり
 夫婦はもはやこれまでと
 あけて悔しい浦島の
 縞の布団に身を寄せて
 こたつの火にでも入りたい

五左衛門「この風呂敷も気になる。」 

 と、引きほどいて取り散らし

五左衛門「やっぱりそうか、これも質屋へ売り飛ばすつもりか。
おい治兵衛、女房子供の皮まではいで、それで女郎狂いとは極悪人め。
女房とおまえは叔母と甥だが、この五左衛門とは赤の他人だ。
損をするいわれはない。
孫右衛門に話して兄の方から取り返す。
さあ離縁状をよこせ。」 

 と、七重(え)の扉、八重の鎖
 百重(ももえ)の囲みは逃れても
 逃れられない厳しい攻め

治兵衛「よし、治兵衛の離縁状は筆では書かない。
これを見ろ。おさん、さらば。」 

 と、脇差に手をかける
 すがりついて

おさん「ああ、悲しい。
お父さま、夫も自分の間違いを認め、ていねいにお詫びをいたしました。
それを聞こうともせず嵩にかかっておっしゃるのは、
あんまり勝手すぎましょう。
治兵衛さんは他人でしょうが、子供は孫ではありませんか。
かわいくはないのですか。
わたしは離縁状を受け取りません。」 

 と、夫に抱きつき声を上げ
 泣き叫ぶのはもっともだ

五左衛門「わかった、離縁状はいらん。
このおんな、来い。」 

 と、引き立てる

おさん「いや、わたしは行かない。
仲たがいしたわけでもないのに。
なんの恨みでこんなことをなさるの。
世間に夫婦の恥をさらすものですか。」 

 と、泣いてわびるが聞き入れない

五左衛門「この上なんの恥がある。
町内じゅうにわめいてやる。」 

 と、引き立てれば振り離し
 手首をつかまれよろよろと
 よろめく足のつま先が
 ふと行きあたるとかわいそうに
 二人の子供が目をさまし

子供たち「だいじなお母さまをどうして連れて行くの、じいさま。」
「きょうからだれと寝るの。」 

 と、母を慕って悲しむと

おさん「ああ、かわいそうに。
生まれてから一晩でも母の肌をはなれたことがないのに。
今夜からお父さまとねんねするのよ。
二人の子供には朝のおやつの前に忘れずに、
必ず桑山のお薬を飲ませてくださいね。
ああ、悲しい。」

 と、妻が言い捨てたそのあとに
 夫は身を捨て子を捨てる
 藪に生え出た二股竹が
 ひとつに戻ることもなく
 ながき別れと

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by sanukiyaichizo | 2016-05-17 01:02 | 心中天の網島 | Trackback | Comments(0)