2017年 03月 18日
とはずがたり 現代語訳 巻五25
こうして五月のころになり、御所さまの命日も近づいた。五部の大乗経書写供養という宿願も三部はすでに果たし終え、残り二部になった。「明日をあてにできる世でもない。両親の形見のうち一つを供養に用いてしまい、父の形見の硯だけ残して何になるだろう。いつまでも残していてもあの世への旅に持って行けるわけでもない」と決意して、これもまた処分しようして考えた。「赤の他人の物になるよりは自分の近縁の者に換金をお願いしようかと思っていたが、よく考えてみると、私の心中の祈願や思いを知らない人に、『渡世の力が尽き果てて、伊勢が詠んだ、
私の家は飛鳥川の
淵でないので瀬に変わる
わけではないが売り払い
銭に替わってゆくのだな
(飛鳥川淵にもあらぬわが宿もせに変はりゆくものにぞありける)
という歌ではないが、今は亡き親の形見まで飛鳥川に流し捨てるのか』と思われるのもつまらない」そう思ったとき、ちょうど鎌倉から筑紫へ下ろうとして京にいた筑紫の少卿という者が、伝え聞いて引き取ってくれた。母の形見は東国へ下り、父の形見は西海の方へ行ったので、とても悲しかった。
一文無しのわたくしが
涙の海に沈んでも
形見の硯とまたいつか
出逢えるようにしてほしい
(する墨は涙の海に入りぬとも流れむ末に逢ふ瀬あらせよ)
と思いながら送り届けた。
そして、その写経を五月の十日過ぎごろから始めることにした。このたびは河内の国、聖徳太子の御陵(大阪府南河内郡太子町)近くにちょっと立ち寄ることのできる所があったので、そこでまた『大般若経』二十巻を書写して、お墓に奉納した。