2016年 10月 19日
とはずがたり 現代語訳 巻三10
夜中を過ぎるころ、御所さまがお呼びになるのでうかがったところ、
「このあいだそなたに言った私の考えを、うまく機会をつくって阿闍梨に伝えることができたよ。どんな父親や母親の愛情でも、これほどの思いやりはあるまい」
と言ってご自分で涙ぐんでいらっしゃるので、ご返事申し上げる言葉もなく、お聞きする前から袖の涙を抑えがたい。
御所さまは、普段よりも心をこめてお話しになった。
「さて、男女の契りが逃れ難いものだということは先ほど話したが、聞いていたね。その後そなたが行ってから、阿闍梨にこう申し上げた。
『ところで、意外なことを立ち聞いてしまいました。このように申し上げると、きっと私に遠慮なさるだろうと思いますが、命がけで誓ったことですから、互いに隠し隔てをするべきではありません。通常なら世間に噂が立っては困るお立場なのに、こらえきれない思いをなさるのは、前世からの報いと思えば、私の方でどうこうお思い申し上げることは決してありません。この春頃から二条に妊娠の兆しが見られるにつけても、以前に見た夢がただならず思われます。御契りの様子も知りたいと思い、見た夢の行く末も確かめようと思い、三月になるまで二条を寄せつけず、待ち暮らしておりました。私の並々ならぬ思いをお察し下さい。もしいいかげんな気持ちなら、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社、春日大社など、国を守る神々のご加護に漏れることでしょう。お心をお隠しになってはいけません。こうなったからといって、私の気持ちは少しも変わらないのですから』
阿闍梨はしばらく何もおっしゃらないで、とめどなく流れ出る涙を払い隠しながら、
『このようなお言葉をいただいた以上、隠しごとをしてはいけないでしょう。前世の宿業の報いは本当に悔しく思います。これほどに言っていただけることはこの世だけのご恩ではなく、生まれ変わり世が変わっても未来永劫決して忘れはならないことだと思います。このような悪縁に遭遇してしまった恨みに耐え切れぬまま、三年が過ぎました。思いを断とうと念仏し読経して祈念してもほかのことは考えられず、思い余って誓願を立て、願書をあの人に送り遣わしましたがこの思いはなお止まず、再びあの人とめぐり逢い、小車がまわって元に戻るようにふたりの仲が元に戻ってしまっても、それを情けないことだと思わぬ自分を恨んでおりました。おっしゃるように妊娠の兆しが明らかであるのでしたら、御所さまの若宮をお一方こちらへお迎え申し上げて仁和寺御室をお譲りし、私は深い山の中に引き籠って濃い墨染めの衣を着て暮らしましょう。長年浅からぬご厚意をいただいて参りましたが、古歌に、
風に吹かれて消える身の
露の命と思っても
いまだこの子が気にかかり
死ぬに死ねない思いです
(小笹原風待つ露の消えやらでこの一節〈ひとふし〉を思ひ置くかな)
とありますように、やはりこのたび子供のことを配慮してくださいましたことは、後世までの喜びでございます』
と泣きながら部屋へお戻りになった。そなたへの深い愛情にはほんとうに感動したよ」
とお話しになる。古歌に、
ただ恨めしいだけでなく
ありがたいとも思うから
着物の袖はひだりみぎ
ふたつの涙で濡れている
(うしとのみひとへにものはおもほえで左右にもぬるる袖かな)
とあるのはこのことを言うのかしらと、つい涙がこぼれる。
それにしても詳しい様子が知りたいし、有明の月がお帰りになる日も迫っているので、夜更けごろ、御所さまのお使いの振りをして部屋を訪ねて行くと、幼い稚児が一人御前で眠っている。ほかに人もいない。