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とはずがたり 現代語訳 巻一19~24

19御所からの弔問
 五日の夜、仲綱が濃い墨染めの袂(たもと)になってやって来た。父が大臣の位にお就きになれば、自分も四位の家司くらいにはなれると思っていたであろう仲綱の気持ちを考えると、思いがけなくこんな袂を見ることになろうとはと、とても悲しい。
「お墓参りいたします。お言づけがお有りでしょうか」
と言う仲綱の、乾いたところのない墨染めの袂を見て、涙をこぼさない人はいない。
 九日は初七日で、私の継母北の方と女房二人、侍二人が出家した。八坂の聖を呼んで、

  輪廻を流転するうちは
  恩愛ともに断ちえない
  恩を捨て去り道に入り
  恩に報いる者となる
  (流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者)

という偈(げ=ほめうた)を唱え、剃り落とされた頭を見ると、うらやましくもあり、悲しさも言いようがない。自分も仏の道に入りたいと思うが、妊娠中であり、思っても仕方のないことで、声をあげて泣いているだけだった。
 三七日の供養をとくに念入りに営んだときには、御所からも正式にさまざまのご弔問があった。弔問のお使いは一日二日と日を開けずにお受けするが、父がこれをご覧になったらどんなに喜ぶだろうと思うと悲しくなる。
 そのころ、京極の女院と申し上げる方は、藤原実雄の大臣のご息女で、今上天皇のお后、皇后宮として帝のご寵愛も格別深く、皇太子さまのお母上でいらっしゃるので、ご身分もお年も惜しまれるべき人だったが、いつも物の怪に悩まされておられた。また今度も物の怪かと皆思っていたが、早くもお亡くなりになったと言って騒ぐのが聞こえてくる。父大臣の嘆きも帝のお悲しみも身にしみて感じられて、とても悲しい。
 五七日になった。御所さまから、僧に追善の経をお願いする諷誦文(ふじゅもん)の布施料として、水晶の数珠をつけた造花の女郎花の枝を頂いた。それに紙片がつけられていて、

  袖には露がただでさえ
  おびただしく置く秋なのに
  亡き父上を恋い慕い
  さらに涙を添えるだろう
  (さらでだに秋は露けき袖の上に昔を恋ふる涙そふらむ)

 このような手紙でも、父はどう返事しようかと喜んで大切になさったのにと思い、
「亡父が苔の下でさぞかし喜んでおりましょう。身の置き所もございません」
と書いて、

  お察し下さいただでさえ
  秋には濡れる袖の上
  別れの涙の白露が
  こんなにかかっていますのを
  (思へたださらでも濡るる袖の上にかかる別れの秋の白露)

 ちょうど秋の夜長のことで、ふと目を覚ますと何もかもが悲しいと思うのに、『和漢朗詠集』にいう「千声万声やむ時なし」とたたく砧(きぬた)のさびしい音が聞こえてくる。古歌に、

  砧を千度うつ音に
  夢を覚まされ悩ましく
  思って袖にこぼれ出た
  涙の露が砕け散る
  (千度〈ちたび〉うつ砧の音に夢覚めて物思ふ袖の露ぞくだくる)

とあるように、袖に砕ける涙の露を床(とこ)に敷いてひとり寝て、亡き父の面影ばかり偲んでいた。


20雪の曙の訪問
 父が露と消えた翌朝は、それぞれの御所から弔問のお使いをはじめ、宮中に仕える貴人で訪れない人もなく、使いをよこさない人もいない、その中で、其具(そのとも)の大納言ひとり訪れなかったことは、常識では考えられないことだった。
 父の亡くなった明くる日の夜明けから日をおかず、
「お心の内はいかがでしょうか」
「いかがでしょうか」
と言って弔問の手紙をよこしてくれた人(雪の曙)が、九月十日余りの月明かりを頼りに訪ねてきた。世の人がみな故法皇の喪で黒っぽくしているころなので、無地の直衣姿なのに、それさえ私の喪服の色と違わないように見える。
 人伝えで話すこともできないので、寝殿の南向きの部屋で逢った。
「昔も今もあわれを感じることは多いが、今年はいつもの年にもまして悲しいことが多くて、袖の涙の乾く暇もない。いつかの年の雪の夜、お酒を酌み交わしながら、
『いつも娘に逢ってやってほしい』
などと言われたのも、お父上の精一杯のお気持ちと思われました」
などと泣いたり笑ったりして一晩中話していたが、夜明けを告げる鐘の音が聞こえてきた。ほんとうに古歌に、

  いつでも長いものだとは
  決められません昔から
  逢う人により短くも
  長くもなります秋の夜は
  (ながしとも思ひぞはてぬ昔より逢ふひとからの秋の夜なれば)

  秋の夜長の千夜分                         
  それを一夜にしたとても           
  愛の言葉はまだ残り                      
  夜明けの鶏が鳴くでしょう                  
  (秋の夜の千夜〈ちよ〉を一夜になせりともことば残りてとりや鳴きなむ)

とあるように、逢う人により秋の夜は、夜明けの鶏が鳴きだしてもまだ語り尽くせない言葉が残るものだ。
「風変わりな朝帰りだと世間がうわさするのかな」
などと言いながら帰っていく様子が名残り惜しく思われて、

  父と別れた悲しみに
  今朝お別れしたあなたへの
  名残りを添えて袖の露
  とても深くなりました
  (別れしも今朝のなごりをとりそへて置き重ねねる袖の露かな)

と詠んで、下女に車に持って行かせると、

  私のための涙とは
  思いませんよ父上と
  別れた悲しい袖に置く
  露で隙間もないでしょう
  (なごりとはいかが思はむ別れにし袖の露こそひまなかるらめ)

 一晩中名残惜しく思うのは誰の手枕のせいかと自分でも知りたいほどに、今日は思い出してしまう。ちょうどそんなとき、檜皮色の狩衣を着た侍が文箱を持って中門のあたりにたたずんでいる。あの方からのお使いだった。とても心のこもった言葉が書かれていて、

  がまんできずにかりそめの
  手枕をして添い寝する
  それを露がかかったと
  人はとがめるのでしょうか
  (忍びあまりただうたた寝の手枕に露かかりきと人や咎むる)

とあった。なにもかもが悲しいころなので、こんな戯れごとまで心に残るように思われて、私もこまごまと返事を書いて、

  秋の露はおしなべて
  草や木に置くものだから
  袖に置いただけだとは
  誰もとがめないでしょう
  (秋の露はなべて草木に置くものを袖にのみとは誰か咎めむ)

と詠んだ。


21四十九日の法要
 四十九日には、弟の雅顕少将の法要があり、河原院の聖がいつもの、

  いつも仲よく共に寝て
  翼を合わせ空を飛ぶ
  変わらぬ愛を誓い合い
  (鴛鴦〈えんおう〉の衾〈ふすま〉の下比翼の契り)

というような、私でさえ使い古した言葉を唱えて終わった。そのあと憲実法印を導師として、文反古(古い手紙など)の裏に自分で法華経を写経したものを供養させた。
 三条坊門の大納言、万里小路(までのこうじ)、善勝寺の大納言などが聴聞したいと言っておいでになって、それぞれ弔ってお帰りになる。その名残も悲しいが、今日は方違えなので、四条大宮にある乳母の家に行った。
 中陰の法要が終わって帰る袂にあふれる涙の露は、慰め合う相手もいない。それまでなんとなく寄り集まって悲しい気持ちを語り合っていた人々からも離れ、ただひとりでいる寂しさは言いようもない。
 それにしても、まだ心の晴れない日が続いている間にも、御所さまは人目を忍んでおいでになって、
「法皇の喪で誰もが目立たない服装をしているから、喪服でもかまわないだろう。五十日間の喪が明けたら院に参りなさい」
とおっしゃるけれども、何ごとも気が進まないので家に籠っている。
 四十九日は九月二十三日なので、古歌に、

  それでもいいことあろうかと
  思う心も虫の音(ね)も
  すっかり弱くなり果てた
  秋の終りの寂しさよ
  (さりともと思ふ心も虫の音も弱りはてぬる秋の暮かな)

とあるように、か弱くなった虫の鳴き声を聴いても、私の袖の露を訪ねているようで、とても悲しい。
 御所さまからは、
「そんなに自分の家にばかりいるのはよくない」
「家にいるのはよくない」
と言ってこられるけれども、動くことができないので、いつ出仕しようという気にもなれないまま、十月になってしまった。


22雪の曙との新枕
 十月十日過ぎのころだろうか、またあの方から使いがあって手紙が届いた。

  毎日でもお便りしたいのですが、御所のお使いと鉢合わせして、古歌に、

  あなたが浮気したことに
  気づきもしないでわたくしを
  ひたすら待っているものと
  思ってばかりいましたよ
  (波こゆるころとも知らず末の松待つらむとのみ思ひけるかな)

  とあるように、御所さまが「浮気に気づかなかった」などとお思いになってはいけないと思い、不
  本意な日々を過ごしておりました。

などと書かれている。
 私のいる乳母の住まいは四条大宮の交差点にあるが、四条通りと大宮の角の土塀がひどく崩れて中と通じている。そこにさるとりという茨が植えてある。それが土塀の上の方に伸びていき、根元は太い二本の幹があるだけだ。
「お使いの人がそれを見て、
『ここには番人がいるのですね』
と聞くので、家の者が、
『そんなことはありません』
と答えると、
『このままでは恋人が通うのに面倒な通路になるでしょう』
と言って、茨の根元を刀で切って帰りました」
と家の人が言うので、いったい何事かしらと思ったが、そうかこのことかとは思いもよらなかった。
 子(ね)一つばかり、午前0時ごろかと思う時分の月明かりに、そっと隅の開き戸を叩く人がいる。中将という少女が、
「水鶏(くいな)かしら、変な音」
と言って開けるのが聞こえたかと思うと、とてもあわてた声で、
「こちらにお立ちの方が、
『立ったままでよいからお逢いしたい』
とおっしゃっています」
と言う。思いもよらない時刻の訪問に何と返事したらよいだろう。言葉もなく呆然としていると、少女の声を手がかりにしたのか、そのまま私の部屋にお入りになった。
 紅葉を浮織りにした狩衣に、紫苑(薄紫に萌黄の色目)だろうか、指貫(さしぬき=普段着の袴)という、どちらも季節を過ぎている上に糊気のない衣装姿で、ほんとうに人目を忍んでいるのだと、はっきりわかる。
「お逢いすることのできる体ではありませんので、古歌に、

  いろいろ人は言うけれど
  若狭地方にあるという
  後瀬の山に逢うように
  後に逢おうよねえあなた
  (かにかくに人は言ふとも若狭路の後瀬〈のちせ〉の山の後も逢はむ君)

とあるように、後には必ずお逢いしましょう」
などと言って今夜は逃れようと強く言うと、
「このようなお体ですから後ろめたい振舞いはしません。長年積もる思いをただゆっくりとお話して聞いていただこうと思います。旅先での仮寝は伊勢の御裳濯(みもすそ)川の神もお許しくださるでしょう」
など潔白そうにお誓いになるので、いつもの気の弱さで強く拒みきれないでいると、夜の床にまで入っておいでになった。
 冬の長夜を夜通しあれこれと言い続けられる様子はほんとうに、中国の虎も涙を流すに違いないほどやさしいので、岩や木でない私の心は動かされ、わが身と引き替えにしてもよいと決意したわけでもないのに、思いもよらず新枕を交してしまった。これが御所さまの夢に見えるだろうかと思うと、とても怖い。
 鶏の声に目を覚まされ、まだ夜ふけのうちに出て行かれた。二度寝しようとは思わなかったが、名残惜しくてそのまま横になっていると、まだ夜が明け切らないうちにお手紙があった。

  あなたのもとから帰る道
  涙にくれたこの顔を
  月が照らして困らせる
  悲しい夜明けの空でした
  (帰るさは涙にくれて有明の月さへつらきしののめの空)

  いつの間にこんなに恋心が積もってしまったのでしょうか。暮れ方まで思い悩んで死んでしまいそ
  うでした。何ごとも世間から隠さなければならないつらさも。

などとあった。ご返事には、

  あなたの袂はどうかしら
  夜空に残る月の下
  帰るあなたの面影が
  袖の涙に浮かびます
  (帰るさの袂は知らず面影は袖の涙に有明の月)

 こうなると、今まで強く拒んできた甲斐もなくなってしまったわが身のありさまは愚痴のこぼしようもなく、どうなろうとよい結果にはならないだろうと思われ、わが身の将来も想像できるようで、声を忍んで泣いて涙にくれていると、昼ごろ、御所さまからお手紙があった。
「いったいどのように考えていつまでもそのように里に下がっているか。このごろはいつも御所に人が少なく、気の晴らしようもないのに」
など、いつもより丁寧に書いてあるのも、とても意外だ。


23乳母の家で
 日が暮れると、今夜はとても早く、夜ふけにもならないうちにあの方がおいでになった。それもなんだか恐ろしく、まるで初めての夜のように思われてものも言えない。
 後見役の仲綱入道なども、出家した後はいつも千本釈迦堂の上人のところに住んでいるので、この家に出入りする男性はいよいよいなくなっていたのに、今夜に限って、
「珍しく里居しておりますので」
などと言ってやって来た。
 乳母や子供たちが集まって騒ぎ立てるのも煩わしいのに、乳母であった人は、あのように古い宮の御所で育った人らしくなく、何の配慮もなくむやみに騒いで『狭衣物語』の今姫君の粗野な母代りみたいであるのはやりきれない。何ごとかと思うが、このような人が訪問中だと知らせるわけにもいかない。月を眺めるふりをして灯りを消して、寝室にこの人を置いて、襖のそばにある炭櫃に寄りかかっているところへ、乳母がやって来た。ああ困ったと思っていると、
「『秋の夜は長いので、弾碁(たぎ=盤上でする石当て)などをして遊んでいただきましょう』
と夫が申します。こちらへお越しください」
と、押しつけがましい顔をして言うだけでもいやなのに、
「何をしようかしら。あの子がいます。この子もいます」
など、継子や実子の名を言い続け、宴会を開こうと、順々に伊予の湯桁みたいに数え上げていくのも情けない。
「気分が悪いので」
などとあしらっていると、
「いつも私の言うことは聞いて下さらない」
と言って立ち去った。
 小賢しく、娘たちには私の近くにいるように言って聞かせ、乳母自身の居間も私の部屋と庭続きなので、いろいろなことが聞こえてくるありさまは、『源氏物語』の、夕顔が身を寄せる家で踏み響かせていた唐臼の音でも聞いていたいと思うくらい、とても不快だ。


24白い色のお酒
 お逢いしたら言いたいと以前からあれこれ考えていたことも、そのままお伝えすると違ってしまうのに、それを漏らしてしまったことは思慮が足りなかったとさえ思われる。面倒な事態になって、せめて早く静かになってほしいと思って寝ていると、激しく門をたたいてやって来た人がいる。誰だろうと思っていると、乳母の子の仲頼だった。
「陪膳(はいぜん=帝が食事するときの給仕)の役の終わるのが遅くなって」
などと言って、
「ところでこの大宮の交差点に、八葉の紋を散らした牛車が止まっていたので、近寄って見ると、車の中にお供の人がいっぱい寝ていました。牛はつないでありました。どこへ来た人の車でしょう」
と言う。ああ困ったと思って聞いていると、乳母がいつもの調子で、
「どんな人が来ているのか、見に行かせなさい」
と言う。仲綱の声で、
「見に行かせる必要はない。他人のことに首を突っ込むのはつまらない。また、姫君の里居の隙を狙って忍びこんでいらっしゃる人がいたら、土塀の崩れ目から、『伊勢物語』に、

  内緒で通う恋の路
  関所の番人通せんぼ
  おかげで私は通れない
  夜になったらそのたびに
  ちょっと眠ってくれないか
  (人しれぬわが通い路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ)

とあるように、『ちょっと眠ってくれないか』と困っていらっしゃるだろうか。懐で育てるように大事にしていても、身分が高くても低くても、女は目が離せない」
などと言うと、また乳母が、
「まあ縁起でもない。誰も参りませんよ。御所さまならどうして人目をお忍びになるでしょう」
などと言うのがこちらまで聞こえてくる。『源氏物語』で夕霧が、雲居の雁の乳母に「六位ふぜいと付き合うなんて」と陰口されたように、この方も乳母に言われるのがつらい。
 息子の仲頼まで加わって騒いでいるので眠れないところへ、先ほど話していたものができ上がったらしく、
「こちらにおいで下さいと申し上げなさい」
とささやく。
 誰かこちらへ来て、取り次いでいるようだ。前にいる侍女が、
「ご気分を悪くなさっていますので」
というと、乳母がやって来て中の襖を乱暴にたたく。突然見知らぬ者がやってきたみたいで、恐ろしくて胸がどきどきするが、
「ご気分がどうしたのですか。ここにあるものをご覧ください。さあ早く」
と枕元の襖をたたく。このまま黙っているわけにもいかないので、
「気分が悪くてつらいので」
と言うと、
「あなたの好物の白物だからご覧下さいと申し上げているのです。ないときにはないかとおっしゃるのに、差し上げようとするといつものごあいさつで。それならどうぞご自由に」
とつぶやいて行ってしまった。
 何か気の効いた言葉でも返してやらねばと思ったが、死ぬほど恥ずかしい気持ちでいるとあの方は、
「お求めの白物とは何ですか」
とお尋ねになる。霜、雪、霰などと風流そうに言っても本当らしく思えないから、ありのまま、
「私は人と違って白い色のお酒をときどきお願いすることがございます。それをあのように悪い噂が立ちそうな口調で言うのです」
と答えた。
「今夜参上してよかったと思います。あなたがおいでになったときには、中国までも探しに行って、白い色のお酒を用意しましょう」
とお笑いになった、そのことが今も忘れられない。つらいときにはこの程度のささやかな思い出が、過去にも未来にも二度とあるだろうとは思えないのだ。

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by sanukiyaichizo | 2016-06-12 10:11 | とはずがたり巻一 | Trackback | Comments(0)