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現代語訳 心中天の網島 中之巻1 

天満紙屋内の場

 円満福徳天に満ち
 天満の神の名のままに
 天神橋と行き通う
 所も神の御前町(おまえまち)
 そこで営む商売も
 神にゆかりの紙店で
 紙屋治兵衛と名をつけて
 客は降るほど買いに来る
 神は正直、商売は
 場所柄で決まるから
 手堅く継がれた老舗である

 こたつでうたた寝する夫
 枕屏風で風防ぎ
 外は十夜の人通り
 店と内とをひとりで仕切って
 女房おさんは気を配る

おさん「日は短いし、夕飯時になるのに、
市場へ使いに行かせた下女の玉はどうしているのだろう。
それにふたりの子供の子守りをさせた丁稚の三五郎が戻らない。
冷たい風に、子供たちは寒がっているだろう。
お末に飲ます乳の時間もわからないような阿呆はどうしようもない。腹が立つ。」

 と、ひとりごと

勘太郎「お母さん、ひとりで帰ってきた。」

 と、走り寄るのは兄の方

おさん「おお、勘太郎帰ったか。お末や三五郎はどうした。」

勘太郎「お宮で遊んでいるときに、乳を飲みたいとお末がひどく泣きました。」

おさん「そうだろうね、ほんとうに。
あれ、手も足も釘みたいに冷たくなって。
お父さんが休んでおられるこたつに入って暖まりなさい。
あの阿呆め、どうしよう。」 

 と、待ちかね店に走って出ると
 三五郎がただひとり
 ふらふらしながら帰ってきた

おさん「このまぬけ、
お末はどこに置いてきた。」

三五郎「ああ本当だ。どこかで落としてしまった。
誰か拾ったかも知れないや。
どこか探してきましょうか。」

おさん「なんとまあおまえは、
大事な子に怪我でもあったらぶち殺すよ。」 

 と、わめくところへ
 玉がお末を背中に負うて

玉「おうおうかわいそうに。
角のところで泣いていました。
三五郎、子守りをするならちゃんとしろ。」 

 と、わめいて帰ると

おさん「まあ、かわいそうに。
乳を飲みたいだろうね。」 

 と、自分もこたつに横になり
 お末を寝かせ添え乳(ち)して

おさん「これ、玉。
その阿呆めを、身にしみるまでくらわしてやれ。」 

 と、言うと三五郎は首を振り

三五郎「いやいやたった今、
お宮でみかんをふたつずつ食らわせ、
わしも五つ食らった。」 

 と、阿呆のくせに駄洒落を効かす
 苦笑いするばかりである

玉「そうだ、
阿呆にかまって、忘れるところだった。
あの、もし、おさんさま。
西の方から粉屋の孫右衛門さまと叔母上さまが連れ立っておいでになります。」

おさん「あら、そうなの。
それなら治兵衛殿を起こそう。
ねえ、旦那さま、起きてください。
お母さまとお義兄さまが連れ立っておいでになるそうよ。
日の短いときに商人(あきんど)が昼寝を見せてはまたご機嫌を悪くするわ。」

治兵衛「よし、わかった。」 

 と、むっくり起きて
 そろばん片手に帳簿を引き寄せ

治兵衛「二一天作(にいちてんさく)の五、
九引(くちん)が三引(さんちん)、
六引(ろくちん)が二引(にちん)、
七八五十六。」
 
 五十六の叔母を連れ
 孫右衛門が入って来ると

治兵衛「ああ、兄上さま、叔母さま。
これはようこそ、どうぞこちらへ。
私はただいま急ぎの計算をしています。
四九三十六匁(もんめ)、
三六が一匁八分(ふん)で二分(ふん)の不足、
二分の欠(かん)。
勘太郎、お末、おばあさまと伯父さまがおいでになった。
煙草盆を持っておいで。
一三が三。
おい、おさん、お茶を差し上げなさい。」 

 と、早口で言う

叔母「いえいえ、お茶や煙草を飲みに来たのではありません。
これ、おさん。
いくら若いといっても二人の子の親ではありませんか。
人の好いだけが取り柄ではいきますまい。
男がだらしないのは女房が油断するからです。
破産や離婚をするときは、男だけの恥ではない。
女の方にも責任があるものです。
少しは目を見開いて意地を見せなさい。」 

 と、言うと

孫右衛門「叔母さま、むだです。
この兄さえだます不届き者が女房の意見など素直に聞くものですか。
おい治兵衛、
この孫右衛門をぬけぬけとだまし、起請まで返してみせ、
十日もしないうちに、なに小春を請け出す。
おいきさま、小春の身請け金の勘定か。
よしやがれ。」

 と、そろばんを取り上げて
 土間へがらりと投げ捨てた

治兵衛「これはとんでもない迷惑だ。
あれからのち、
今橋の問屋へ二度出かけ、天神様へ一度お参りしたほかには、
敷居から外へ出たことのない私が、
請け出すどころか思い出したこともありません。」

叔母「お黙りなさい。
昨晩十夜の念仏講で聞きました。
曾根崎の茶屋、紀の国屋の小春という女郎に馴染みの天満の大尽が、
ほかの客を押しのけて、もう今日明日にも請け出すとのうわさでもちきりでした。
物価も上がって住みにくくなった世の中でも、
金と馬鹿は尽きないものだと、いろいろ評判が立っています。
うちのおやじ五左衛門殿はすっかり名前を知っていて、
『紀の国屋の小春に天満の大尽と言えば治兵衛に決まっている。
女房には甥だがこっちは他人、娘が大事だ。
茶屋の女を請け出して女房は茶屋へ売りかねない。
着物ひとつも傷つけられないうちに取り返してやる。』
と、玄関に降りようとなさるのを、
『まあ、騒々しいこと。穏やかにもできますのに。
ことの是非を聞いてからにしましょう。』
と押しなだめ、この孫右衛門を連れてきました。
孫右衛門の話では、
『きょうはきのうまでの治兵衛ではない。
曾根崎との縁も切れ、立派な真人間になった。』
と聞いていたのに、
あとでまたぶり返すとはいったいどんな病気だろう。
おまえの父は私の兄、
かわいそうにいまは光誉道清とおっしゃるが、
臨終のときに枕から頭を上げ、
婿であり甥でもある治兵衛のことを頼むと言った、
その一言を忘れたわけではありませんが、
おまえの心がけひとつのせいで、
頼まれた甲斐もないじゃありませんか。」 

 と、つっぷして恨み泣く
 治兵衛は手を打ち

治兵衛「ははあ、そうかわかった。
噂の小春はたしかに小春だが、請け出す大尽はまるでちがう。
兄上もご存じの、あのとき暴れて踏まれた独り身の太兵衛だ。
妻子親族を持たない男で、金は田舎の伊丹から送らせている。
とっくにあいつが請け出しているはずのところをわたしに邪魔されたので、
この機会を逃す手はないと、請け出すことになったのでしょう。
私の知ったことじゃありません。」 

 と、言うとおさんもあらたまり

おさん「たとえわたしが仏でも、
夫が茶屋者を請け出すのに味方するはずがありません。
こればかりはうちの人に微塵もうそはありません。
お母さま、わたしが証人になります。」 

 と、夫婦の言葉がぴったりと
 一致したので「なるほどそうか」と手を打って
 叔母も甥も安心したが

叔母「ふん、念には念を入れよといいます。
まずはうれしいですが、もっと安心するために、
頑固なうちの人の疑いが晴れるように誓紙を書かせます。
いいですね。」

治兵衛「いいですとも。千枚でも書きましょう。」

孫右衛門「それで安心した。じつは来るとき買ってきたのだが。」 

 と、孫右衛門は懐から
 熊野牛王(ごおう)の群烏(むらがらす)の
 護符をとり出し治兵衛はそこに
 小春と夫婦の約束を
 交わした比翼の誓紙にかえて
 天罰起請文を書きつけた

治兵衛「小春への思いは断ち切り、縁を切る。
偽りを申したときは、上(かみ)は梵天帝釈天から下は四天王・・。」

 の言葉につづけ
 仏と神の名を連ね
 「紙屋治兵衛」としっかり書いて
 血判押して差し出した

おさん「ほんとうに、お母さまとお義兄さまのおかげでわたしも安心です。
子供までもうけながら、していただけなかった固い約束。
みなさん喜んでくださいませ。」

叔母「まったくその通りです。
その気になれば身持ちも固まる、商売も繁盛するでしょう。
親戚中が世話を焼くのも、みな治兵衛のためによかれと思い、
兄弟の孫をかわいいと思うからです。
孫右衛門おいで。早く帰ってうちの人を安心させましょう。
なんだか冷えてきたようね。子供に風邪をひかせないように。
これも十夜の仏さまのおかげです。
ここからお礼の念仏を唱えましょう。南無阿弥陀仏。」 

 と、帰って行く心はまるで仏さま  

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by sanukiyaichizo | 2016-05-16 06:47 | 心中天の網島 | Trackback | Comments(0)